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: 付録:最近の時事問題等について : 私の信仰告白 : イエスの死と復活

それでも私は信じる

私は、キリスト教の伝統的な教義には懐疑的です。 それでも私はキリスト教を信仰します。 それは、私がキリスト教を信仰する理由が、イエス様が処女受胎で産まれたからでも、 イエス様が奇跡を起こしたからでもなく、 聖書の言葉に無限の知恵と愛を感じるからです。

私は、数学科を卒業しているので、安易に「無限」という言葉を使いません。 青野牧師が、次のように述べています[11]。

もしも神が、神の意志は全く誤りのない形で人間に入手可能なのだ、 ということを意図しているとするならば、 神はおそらく黄金の板に、だれも訂正することも付加することも 削除することもできない仕方で、 自らの意志を刻印するということをしただろう。 -- 「旧約聖書」中のあの石の板に書き記されたモーセへの 「十戒」の賦与の言い伝えに見られる思想はこれに近い。

しかし、現実は、全く逆に、神の意志は、 すぐに朽ち果ててしまう文字通りの紙切れでしかないパピルスに 書き記されていったのであり、そして事実そのオリジナルは、 おそらくすべて失われてしまったのである。 このことは、すでに第四章で述べた、 イエスは何も書き残すことをしなかった、 という事実とも全く符合する。 なぜならば、この二つの事実とも、 神の意志は神聖不可侵なままの形で人間が手中にすることができる ものなのでは決してなく、むしろ全く逆に、破れの多い、 誤り多き人間の解釈なり再構成なりのわざを経由してしか、 手にすることのできないものであることを示しているからである。 つまり、それが絶対に正しいものであるなどとは 決して言えないような仕方でのみ、 それを手にすることができるのである。
このように、聖書が相対的で、人間の数だけ解釈がありうるからこそ、 聖書に「無限」を感じます。 また、このような形で、人間に無限の知恵と謎が与えられたことを、 神に感謝します。

最後に、政治犯救援運動を通して私が吉松牧師と知り合い、 ここで洗礼を受けることにつながったお導きを感謝し、 政治犯として囚われている兄弟姉妹が自由になることを祈ります。



naota 平成20年2月12日