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戦責告白

私は、以前から神の存在を信じていましたが、宗教に対しては懐疑的でした。 その理由は、一般的には、古代から現代まで続く宗教戦争と戦争協力、 キリスト教に限れば、中世の宗教裁判と現代のファンダメンタリズムでした。 特に、ベトナム戦争の時に、ある牧師は戦争へ行く兵士を祝福し、 またある牧師は戦争に反対して徴兵カードを焼き捨てたという事件は、 宗教的にも法律的にも大きな問題であると、記憶に残っています。 この問題については、どちらが正しかったのか、議論を続けてほしいと思います。

私がキリスト教に対して好意的になったきっかけは、 1992年のローマ法王によるガリレオ・ガリレイの名誉回復と、 吉松牧師の著書[3]で知った日本基督教団の戦責告白でした。 私にとって、戦責告白は、自分の信仰の出発点のひとつです。

ただし、戦責告白には、具体的な戦争責任に触れていない、 戦争が終わってから戦責告白までに21年間もかかっている、 教団の成立が「神の摂理」なのかどうか等の疑問が残ります。 戦責告白を問い直し、現在において具体的に「見張り」の使命を実践することが、 必要であり、それが教団のリバイバルにつながると思います。

また、諸教団の戦争責任に関する文書を読んだところ、 日本バプテスト連盟が戦争責任を太平洋戦争に限らずに、 明治時代から現在まで続く「むさぼり」ととらえていること[13]、 明治学院が戦後責任を明確にしたこと[14]が、 印象に残り、考えさせられました。

また、政治と宗教の関係についても悩んでいましたが、 関田牧師[1]が、

もちろん宗教者が直接政治権力を掌握するというのは誤りである。 その意味でイランの現状は批判されなければならない。 宗教者は自ら権力を志向するのではなく、 政治の浄化への発言と行動をするべきである。 そこに責任ある政教分離を遂行しなければならない。
と、政教分離と宗教の役目を明確に指摘していることを、私は支持します。 この点で、仏の教えに従って政治を監視すべきはずの公明党の権力指向を憂慮し、 キリスト教が同じ誤りをしてはならないと思います。



naota 平成20年2月12日