今日は、嗜好を変えて、聖書を読む代わりに、 最近読んだ本を紹介して、お祈りさせていただこうと思います。 「ソフィーの世界」[15]という哲学の入門書を紹介します。
まず、「哲学とは何か」の章から引用します。
哲学の世界に入っていくいちばんいい方法は問題意識を持つこと、 つまり、哲学の問いを立てることです。
世界はどのように作られたのか? 今ここで起こっていることの背後には 意思や意味があるのか? 死後の命はあるのか? どうしたらこういう問いの答えは見つかるのか? そしてなによりも、わたしたちはいかに生きるべきか?
なぜ「人はパンのみによって生きるのではない」のか。 なぜ、哲学、宗教、芸術等が存在するのか。 それらは、人間の脳の働きだけによるのか。 それとも、それを越える何かがあるのか。 私は、本書をきっかけに、このような疑問を考え続けています。
次に、「神秘体験」の節を紹介します。 (引用省略)
キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の神秘体験は、 人間を越える人格に遭遇することだそうです。 それに対して、仏教徒、ヒンズー教徒、無神論者の神秘体験は、 宇宙と一体になることだそうです。 どういう訳か、私は、後者の神秘体験をしました。 きっかけは、星空を見上げたり、宇宙についての本を読んだりしたことです。 科学雑誌の「ニュートン」を読んでいて、 宇宙との一体感を感じて、感動して泣いたこともあります。 そういう訳で、伝統的なキリスト教の教義には反しますが、 私は、人間を越える何らかの宇宙的な存在を感じるが、 その性質は自分の感覚を越える問題であると考えています。
次に、「スピノザ」の章から引用します。
スピノザはみんなが認める宗教を批判した。 キリスト教もユダヤ教も、コチコチの教義と空しい儀礼によって 生きのびているだけだ、と考えたんだ。 スピノザは歴史的批判的方法を最初に聖書にあてはめた人だ。
スピノザは、聖書は一字一句まで神の霊感に満ちている、 ということを否定したんだ。 聖書を読む時には、それがどんな時代に書かれたのか、 しっかりと見きわめなくてはならない、とスピノザは考えた。 この批判的な読み方をすると、聖書のいろんな書や福音書の間に 矛盾がぼろぼろ出てくる。 しかしそれでもなお新約聖書のテクストを深く探れば、 神の代弁人としてのイエスに出会う。 イエスのメッセージはまさに、 コチコチになっていたユダヤ教からの解放を告げていた。 イエスは、愛がなによりも貴いという、 理性にもとづく宗教を説いた。 スピノザはこの愛を、神への愛であり、 ぼくたち人間同胞への愛だ、と考えた。 でも、キリスト教もまたたくまにコチコチの教義と 空しい儀礼にこり固まってしまった。
歴史的批判的方法には、まったく同感です。 「しかしそれでもなお新約聖書のテクストを深く探れば、 神の代弁人としてのイエスに出会う。」 という部分を読んで感動しました。
最後に、哲学の一般的な問題に対する、私の考えを紹介させていただきます。
人間は理性によって知識を得られるという合理主義と、 経験によって知識を得られるという経験主義については、 私は経験主義のほうがより正しいと思います。 そこにも小さいお子さんがいらっしゃいますが、小さい子供を見ると、 人間が生まれながらに理性や信仰心を持っているようには見えません。 合理主義者は、子供に接する機会が少なかったのはないでしょうか。 また、今になっては解らないことですが、 プラトンが女は男と同様に理性的であると主張し、 その弟子のアリストテレスが女は男より劣っていると主張したことについては、 アリストテレスには賢い女友達がいなかったのではないかと思います。 私は、幼稚園から大学院まで男女共学の学校に通ったので、 理性や法律ではなく経験によって、 女は男と同様に理性的であると思います。 私の信仰心も、吉松先生に出会ったことは神様のお導きですが、 聖書等の本を読んだり、説教を聞いたり、 神秘体験をしたりするような、経験に基づいています。
お祈りさせていただきます。
すばらしい本に出会ったことを宇宙の神様に感謝します。 本書の著者、訳者、出版社の皆様、そして、 私にこの本を勧めてくださった方に感謝します。
より広い知恵を持ち、時には一歩離れてキリスト教について考えることが、 より深い信仰につながると、私は信じます。 これからも、よき本、よき知恵、よき隣人が与えられることを祈ります。