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: イエスの死と復活 : 教義の詳細について : 聖母マリアの処女受胎

身体のよみがえり

私は、何等かの形での永遠の命が、たぶん存在するだろうと信じています。 しかし、それが、 のどれか、あるいはどれでもないか、あるいは個人差があるのかは、 死んでみないと解りません。たぶん、霊魂は不滅なのだろうと思っていますが、 それが本当かどうかは、死んでからの楽しみです。 こう考えると、死を恐れることも急ぐこともありません。

ところで、キリスト教徒が復活し、仏教徒が転生するような、 都合がよいことがあるだろうかという、疑問を私は持っています。 永遠の命が、人間が持つ性質ではなく、神仏に与えられるものならば、 個人差があっても不思議はありません。 しかし、そうならば、幼児洗礼を受ける機会も無く死んだ子供達が困ってしまいます。 誰がキリスト教の神によって救済されるのか、 キリスト教徒でない方が亡くなったら魂の救済を祈るべきなのか、問題です。

また、私は、自分が死んだら、空き缶をリサイクルするのと同様に、 自分の身体を移植、研究用に提供する予定です。 私にとって、死体は、魂が抜けた空き缶です。 モスクワにはレーニン氏の遺体が保存されていて、 ピョンヤンではキム・イルスン氏の遺体の保存作業をしているそうですが、 遺体を保存することよりも、 故人の著書を出版し続けることのほうが重要だと思います。

「マルコによる福音書」12:14で、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、 そんな思い違いをしているのではないか。」と、イエス様自身が述べられたように、 「復活」と「生きている者の神」は、聖書の最も難解な部分のひとつです。 これについて、生きている人間が議論しても結論の出しようがないので、 私は積極的不可知論の立場を支持します。

ここまでの文章を書いた時には、「復活」について、 「人間が死んだらどうなるか」と狭い意味に考えていました。 現在は、病気の回復も、犯罪者の更生も、戦争の終結も、 みな、身近な復活であると感じています。 そして、日々の復活を神に感謝します。

私が教えている学生の中にも、つまずいたり悩んだりしている者がいます。 彼等の復活を祈ります。 病気や怪我や様々な理由で欠席していた学生が 学校に戻ってくることは、 教師にとって最もうれしいことの一つであり、 そのたびに復活を神に感謝しています。 また、教育についていろいろな問題がありますが、宗派を越えて、 学校が復活の現場になることを祈ります。



naota 平成20年2月12日