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: バベルの塔 : 付録:祈祷会より : 宇宙からの帰還

初めに言葉があった

(1995年5月21日の祈祷会の原稿を編集)

ヨハネによる福音書 第1章第1節から第5節

コリント信徒への第2の手紙 第3章

今日は、私の考えがまとまっていないので、祈るというよりも、 問題提起をしたいと思います。

現在の日本の政治には、政党離れという現象が起きています。 また、「宗教を信じる若者が増えることは問題である。」という世論がある一方で、 伝統的なキリスト教や仏教は伸び悩んでいます。 私は、この2種類の問題に、共通点があると思います。

私は、キリスト教の伝統的な教義には懐疑的です。 それでも私はキリスト教を信仰します。 それは、私がキリスト教を信仰する理由が、イエス様が処女受胎で産まれたからでも、 イエス様が奇跡を起こしたからでもなく、 聖書の言葉に無限の知恵と愛を感じるからです。 したがって、例えば、奇跡を全面的に否定するシーリング説を読んでも、 私の信仰はまったくゆらぎませんし、 私にとって自然科学と宗教は矛盾しません。

また、偽予言者に対抗するためには、奇跡ではなく言葉を出発点として、 キリスト教を信仰し、伝統的な宗教をリバイバルさせるべきだと思います。

ただし、言葉を出発点とするといっても、聖書に書かれた文字を絶対視すれば、 ファンダメンタリズムにおちいります。 そこで、「文字は殺しますが、霊は生かします。」という言葉が、現代社会において、 ファンダメンタリズム批判の意味を持つと思います。

では、「霊に仕える」とはどういうことなのか、 私達は具体的に何を信仰するべきなのか、 それが現在私が考えている課題です。



naota 平成20年2月12日